第12回公演『かあいい日本~ごどーちゃんの居る77の風景~ Kawaii Nippon ~77 scenes where Godotty is~』

昨日の私 と 今日の私 の 間には、どう足掻いても埋められない圧倒的な孤独がある。

でも、何者かにならなくてはこの世界に居られないのヨ。

だから、昨日の私 は、待つ。今日の私 も、待つ。

ところで、何のために?? と、うっかり考える時の滑稽な顔をお互いに見ようじゃないの。

ほら、愛しくって、哀しくって、堪えられない!

――サミュエル・ベケット作「ゴドーを待ちながら」に着想を得た、オリジナルの鮭スペアレ流音楽劇。


実感として、結局、ゴドーなんて必要ない。だけど、ゴドーを「待つ」必要はある。そのことについては、後でまた触れるとして、演劇空間とは何か、についてまず宣言する。

大前提として、演劇はかつてあったこと・もの・人しか表現できない。そこが、絵画や映画など他の創作との大きな違いだ。私は、その演劇空間を、「お墓参り」として捉えている。かつて在った/有った存在を、埋葬し、祈る場。死者に思いを馳せ、その身体と霊(たましい)を呼びこむ場。

本作品の埋葬されし人物は、「エストラゴン」であり、「ウラジーミル」であり、さらにもっと言ってしまえば、作者であるサミュエル・ベケットであるわけで、その霊を呼びこみ、この場を演劇空間たらしめるために、役者たちはエネルギーを費やすことになる。実体のない霊に形を与えるのが役者の仕事なのだ。

それでは、役者は死者に対する生者として、どんな存在であればいいのだろうか。現在、この場に歴然と在る身体は一体何者なのだろう。

繰り返すが、演劇は過ぎたことしか語られない。役者は未来のことは描けない。役者が台詞を放つ。その台詞は、放ったそばから、過去になる。すなわち、死を与えられる。役者が歩む。その足の運び、背中の温度は、触れる間もなく消えていく。

だから、役者もやはり埋葬されなければならないのだ。一瞬一瞬の「生」を「死」に移行させながら、エストラゴンたちとともに、死んでいく。その、借り物の身体に宿る、霊同士での対話が、演劇で生の真実を描く方法となりうるのだ。

今、「生の真実」という言葉を使ったが、極論を言ってしまうと、そんなものはない。それは、「ゴドーを待ちながら」の戯曲解釈がひとつに絞られるはずもなく、ゴドーが何者なのかも誰にもわからないのと同様である。しかし、真実を追い求めざるを得ない、そして、何者かにならなくては生きていけないのが人間の本音だし、どうにかこうにか、形のないものに形を与えようと、稽古場でも生活の場でも躍起になるのが当然なのだ。

だけど、躍起になっても、どこにも行けない。誰も来ない。何にも起こらない。まったく堪らない。そんなふうに、いつでも私たちはゴドーを待っている。待たざるを得ない。だけど、本当にゴドーが必要なのか?と、いうと、はてさて。

さて、「かわいい」には、「愛おしい」「恥ずかしい」「可哀そう」などの、意味がある。恋しいものにかける言葉「かわいい」を、そのまま使うのはやはりあまりにも呑気過ぎるように思って、だから、ゴドーの来ないこの世界を、舌っ足らずに「かあいい」と宣言することで、少しでも愛することができないだろうか。だって、愛がなければ、墓はいずれ荒れ果ててしまうだけなのだから。

中込遊里(当日パンフレットより)

作・演出

中込遊里

振付

片ひとみ

音楽

五十部裕明

上演日時

2014年2月11日~ 2月16日 全8回公演(上演時間70分)

会場

Gallery LE DECO

出演

男A/女A:清水いつ鹿
男B/女B:角智恵子
男A/女A:水野絵理奈
女C:花村雅子
男B/女B:土井真波(劇団銅鑼)
男の子:片ひとみ
ポッツォ:八重尾恵
ラッキー:矢嶋美紗穂
ウタイ:中込遊里

演奏

パーカッション:松岡祐子
アコーディオン:寺島淑子
ギター:平野良昌
パーカッション:河原ヒロシ
シタール:五十部裕明

スタッフ

照明:太田奈緒未
衣装・小道具:清水いつ鹿・水野絵理奈
ドラマトゥルク:宮川麻理子
宣伝美術:有布
制作:大村みちる・松本いろは

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